働く

昨年、会社の労働組合の役員を1年やっていた時に「働く」ってことをよく考えた。今は、任期が終わったのでのんびりしていて、当時ほどは考えてないけど、まだ頭から離れずにいる。私は、働くとは、社会参加の手段だと思っている。何か、社会に対し貢献して、それに対しありがとうっていうのが報酬だと思ってしまうので、賃金の多少の切り下げを問題として扱うのはあまり面白くない。儲けだけ追求してギャンブル産業に行きましょうということになったら私はそういう社会参加は望んでない。反対に、いくらいい仕事ができても、まったくお金は払いませんとなると、それも望んでないんだけど。
そう考えるせいか、労働条件が下がった、即、撤回って考えるより、労働条件がさがった、なぜ?って考えてしまう。理由が納得できれば、そして、以前、仕事が高く評価されているならと思うとやむを得ないときがあるのかと思う。一方、労働者は弱者で、そこから切り下げを行っていこうという動きに断固として対抗しなければという意見もあり、それは、理屈としてはわかる。が、私には共感できない。理屈としてわかっているようで、きちんとわかっていないのかもしれない。もう少し感度をあげなければいけないのかもしれない。ここまで書いてみると、私のどこかに思考停止しているところがありそうだ。いや、思考の前に直感をうまく拾ってないようだ。
世界を変えるのはかく難しい。いや、世界は変わらないのか、変わるのは自分か。

自己変容から世界変容へ―プロセスワークによる地域変革の試み

自己変容から世界変容へ―プロセスワークによる地域変革の試み

佐藤学先生の「歩けば風景が変わる」、「希望を捨ててはいない」という言葉を思い出す。